アレッポ 最後の男たち
ジャンル
平和 人権 その他 時間 104分
製作年2017年
監督 フェラス・ファヤード
<第90回アカデミー賞ノミネート作品>長編ドキュメンタリー部門 ほか世界中の映画祭で合計23賞受賞!
UNHCR難民映画祭2018 満足度No.1映画!
シリア、瓦礫と化す街で一人でも多くの命を救うため、決死の救助活動を行うホワイト・ヘルメット(民間防衛隊)に迫る衝撃のドキュメンタリー。
「空爆」という漂白された言葉の向こうに広がる、あまりにも過酷、だが同時に、あまりにも人間的な真実。この映画を観るまで、僕はその想像力をまったく欠いていた。
ライムスター宇多丸(ラッパー/ラジオパーソナリティ)
©Larm Film
About the film
そこに救える命がある限り――
瓦礫と化す街で一人でも多くの命を救うため、決死の救助活動を行うホワイト・ヘルメット(民間防衛隊)に迫る衝撃のドキュメンタリー。
More info
5年以上も内戦が続くシリアの都市アレッポは崩壊の危機に瀕している。取り残された市民35万人は築かれつつある包囲網に逃げ場を失い、間近に迫る死に恐怖を懐きながらも何とか命をつないでいる。前触れなく轟音と共に飛来するジェット戦闘機は、わずかな希望すら打ち砕くごとく昼夜問わず爆撃を続け、市民もろとも市街地を瓦礫へと変えていく。ここでは生よりも先に死が存在する。爆撃に次ぐ爆撃で、次から次へと命が失われていく極限の世界で、悲劇が延々と続いていく。
現場には自らの命を顧みず、生き埋めとなった生存者を救おうと駆けつける男たち「ホワイト・ヘルメット」の姿がある。家族と逃げ、異国で難民として生き延びるべきか、それとも仲間や家族のいる故郷に留まり、変わり果てたが心安らぐ場所で死を迎えるべきか。「ホワイト・ヘルメット」のメンバーの一人、ハレドは葛藤を抱えながらも救助活動を続けていく。絶望の淵で彼らが見せる勇敢さ、そして眼の前で進行する信じがたい不条理な紛争の現実に、私たちは何を見出すことができるのだろうか。
Data
| 原題 |
LAST MEN IN ALEPPO |
製作年 |
2017年 |
| 製作国 |
デンマーク・シリア |
制作 |
アレッポ・メディア・センター、ラーム・フィルム |
| 配給 |
ユナイテッドピープル |
時間 |
104分 |
Cast & Staff
| 監督 |
フェラス・ファヤード |
製作総指揮 |
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| プロデューサー |
ソーレン・スティーン・イェスパーソン、カリーム・アビード、ステファン・クロース |
原作 |
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| 脚本 |
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音楽 |
カルステン・フンダル |
| 撮影 |
アレッポ・メディア・センター、ラーム・フィルム |
編集 |
スティン・ヨハネセン、マイケル・バウアー |
| キャスト |
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上映者の声
上映会を主催された方の声を紹介します
「シリアの今とむかし、これから」というテーマのもと、イベントを開催しました。このイベントは、講演会、映画上映会、交流会の3部会で構成しました。
参加者の中には、中学生や高校生、これから国際協力を志す学生や、専門家、青年海外協力隊OBなど、さまざまな立場の人がいました。
講演会の講師からは、映画には撮影されていない裏側を読み解くことをお話くださり、また、映画を観た後に、参加者同士での意見交換をしていただいたり、シリアを支援する団体との交流を取り入れたことで、単に映画を観ただけで終わらないイベントを開催することができました。
映画自体のインパクトも強く、参加者からは想像していた以上の厳しい現状を知ることができたと、反響がありました。
映画を観るならひとりでもできますが、このように強い衝撃を受けるドキュメンタリー映画であれば、観た後に複雑な感情をひとりで抱え込むのではなく、一緒に観た人と思いをシェアすることが大切だと、今回改めて感じました。
上映が終了すると、皆言葉が出ないと行った様子でした。
中には涙していた方もいました。
一般的に、シリアや紛争地の状況がメディアで報道される場合、その多くが爆撃の様子と、数値が情報のほとんど。そんな中でこの映画は、その裏でリアルに生きる人々の内面を映し出し、鑑賞者にその事実といつか自分にも起こるかもしれないと言う当事者の意識を芽生えさせる、非常に重みのある作品でした。
ラストの衝撃的な終わり方を含めて、シリアでの現実がリアルに伝わるドキュメンタリー。反体制派側からの視点のため、完全に全てを鵜呑みにしてはいけないとは思うが、現状を事細やかに伝えている作品。
観終えた参加者は色々と思うことが多かった作品。
壮絶な生死の生活をおくっている人たちの様子を見ることから、仕事の悩みや家庭の悩みなどいろいろなことに惑わされながら生きている私たちにたちにとっては、これらのこととは別に大切なことを考えて行く必要があると感じさせられる映画でした。
ハレドの子供との会話や向ける眼差しは、どこにでもある平和な風景であるが、そこは空爆が行われている最中の瓦礫と化した町であった。文字通り常に死が隣り合わせの中で、瓦礫に埋もれた生存者を救出しながら、自分の家族の命の安全について同様に考える。残るか、この地を離れるか。離れたところで安全は保障されていない。生きることが命がけになることにはかわりはない。しかし、家族を守りたい。苦悩、葛藤、救助、死体と向き合い、死者の数を報告する。ある日、彼らが公園の遊具で楽しむも束の間、戦闘機の飛来で避難する。標的とされないために集団で一箇所にいてはならない。そう、もはや戦闘機は、人を殺すことだけが目的で、戦闘員であるか、非戦闘員であるかは関係ないのだ。そのような戦時に彼らの日常があり、家族と過ごしている生活がある。子供や家族、兄弟を思う気持ち、同僚と冗談を言い合う普通の場がある。希望や未来はどこにあるのだろうか。果たしてそれを日常と言ってよいのだろうか。
何度も空爆を繰返し、ボタンひとつで爆弾を落とす行為に、「人殺し」という重みを麻痺させていると怖く感じた。どのようにこの行為を肯定することができるのだろうか。正義は勝者にあるのだろうか。これが同じ地球上で、同じ人間という生物がおこしているのである。映画は説明が多くないだけに、当事者達の会話から直面している悲しみや苦しみが、そのまま心に突き刺ささる。トークショーにおいて、安田純平氏の「無関心、無責任」という言葉が重かった。何が正しく、何を問題にすべきかを自分の頭で考えることだけが、過ちを踏みとどまらせてくれるブレーキとなるのだと感じた。