2人のバランスというか距離感が絶妙。
見ていて実に心地が良い。
一般的なコレクターは、コレクションして満足してしまいます。
でもこの2人は違います。
自分たちのコレクションが使われていることに価値があると考えます。
だからこそ、50×50の取り組みに賛成したのでしょう。
一つの美術館に置いておけば、ほとんどの作品は日の目を見ることがありません。
50ずつ別々の美術館におけば、多くの作品が人々の目を楽しませられます。
50×50に分けることが、逆に彼らのコレクションを一つにまとめました。
多くの美術館に分散して、多くの人の目に触れることで、2人の世界観が認められる。
彼らの作品を通じて、人々が一つにまとまっていく。
なんと素晴らしいことでしょうか。
作品が彼らの部屋のベッドの下にあるとき、作品は彼ら2人のものでした。
それを寄贈することで、多くの人がハッピーになりました。
作者も、美術館も、地方に住む人々も。
幸せの循環がそこに起きていました。
アートそのものには答えはない。
アートの意義は「考えさせること」。
それを見る人がそれぞれに答えを見つけようとすることに意味があります。
象徴的だったのは、美術館でのプログラムの一コマです。
「無題」の作品に対して、子どもたちが自由にタイトルを考えます。
答えを出そうと考えるアプローチこそがアートなのかもしれません。
日本では、作品は作家のものです。
アーチストを「先生」と呼ぶ姿勢に「私たちとは違う」というスタンスが表れています。
ハーブやドロシーが集めた作品の中には、ノートに書き殴ったようなものもあります。
あるいは、まだ完成していない途中のものもあります。
それを見た人は「これなら私だってできそう」と思います。
実はここがミソです。
自分でもできる=アートを自分の身近なものと捉えたということです。
特別なものではなく身近なものとなることで、アートは初めて生きるわけです。
この映画は、彼ら2人の「人生のしまい方」でもあります。
2人で築いたものを、2人でしまっていく、そのあり方が実に素敵です。
エンディングに一つだけ壁にかかった絵を見て、目頭が熱くならない人はおそらくいないのではないでしょうか。