1年以上前に、別の主催者さんのところで観た映画です。
あれから何度も爆撃のニュースを耳にするたび、
あの時のあの映画にでてた人たちは、今も無事だろうかと頭をよぎりました。
今回、終わったあとのシェア会で、何人かの方が話してくれました。
「ニュースなどで見聞きしたときは、顔が映っていてもどこか知らない人たちの出来事だった。今回、映画をみて隣人のような痛みを感じた」
「もし今後(起こってほしくないけど)、ニュースで流れたら違う感じ方で受け止めると思う」
ドキュメンタリー映画を通して、スクリーンの向こう側で一方的に出会う人たちは、
向こうはわたしたちのことは全く知らなくても、わたしたちは向こうを知っている、
そんなある種、会ったことはない、遠い親戚くらいの距離感にしてくれます。
はじめてこの映画を見終わったとき。
もし、自分がガザに生まれていたとしたら…
そう考えた先に、あまりの希望のなさにドヨーーンと沈み込んで一人帰りました。
問題が根深くて、なかなか
「よし、わたしはこう動こう!」と、直接的なアクションがみつかりませんでした。
その後、ドキュメンタリー映画の上映会を主とする「マチリノ」の活動を立ち上げたのは、あの映画の後押しが少なからずあるのだと思います。
楽しいことが背中を押すのと同じくらい、
悲しいことが、エンジンとなって背中を押すこともあるのだと知りました。
ささやかで、ありふれた日常。
贅沢でも強欲な願いでもない、誰もが手に入れて然るべき日常。
これを、いとも簡単に踏みにじられたとき。
わたしの中で、普段息をひそめてる怒りや力が底からわき上がってきます。
でも、ガザの人々は
自分たちの力では、どうしようもない、理不尽で屈辱的で絶望の日々が何十年と続いているのです。
きっと、いっときの怒りや感情だけではどうにもならないくらいの…
絶望とイコールになるのかはわからないけれど、希望の見えない日々。
当たり前の日常が何より大切。
平々凡々上等、最高な幸せなんだと思います。
1年前のあの日、沈む気持ちで1人帰る足取りは重かった…
先日は、上映会後、みんなの想いを聞けて、吐き出せて、気持ちが軽くなりました。
直接的な解決策は見つからないとしても、今を大切にしよう、今の幸せを見つめ直せてよかったです。
次回、3/13(木)の第12回マチリノシネマで「ガザ 素顔の日常」を再上映します。
映画を見始めてしばらくの間は、綺麗な町並みやビーチ、子どもたちの弾ける笑顔、タクシーのドライバーが仕事前に海を見ながらカフェラテを飲むシーンなどが続き、ガザの日常を生きる人って、私たちと同じだな、と感じました。
でも、それから、ガザを取り巻く惨状や若者の姿、よくみたらガリガリに痩せた子どもたち、難民キャンプを襲う襲撃に、ガザの日常が「異常」であることに気づきました。
この時期にこの映画を見ることができてよかったです。
自分にできることがないか、考えてアクションしたいです。